ゼロベースで見極めること
ゼロベースで考えるって前回の記事で書きました。
どうしてか?
人間って無意識にしていると、現状維持しようとします。
本当はいつも新たな自分・・・・・・変化しないものは何一つとして無いのだけど、人間は過去の記憶の中の自分で自分という人間像を頭の中に作り出していて、その自分像を保存しようとするのです。
それは、自分自身のこともそうですが、他の人のこともです。
『この人はこういう人だ』と頭の中で結論づけて固定化して、本当の相手ではなくて頭の中のその人の幻想・・・・・・イリュージョンとお付き合いしているのです。
多くの人間が自分のことも他人のことも頭の中で無意識に分析、固定化し、ありのままを見るのではなく幻想を見て生きているのです。
そうした認識となるのは、ある意味で人間の心の習慣性に因るもので、自分の心を守るために見たくないものを見ないでスルーするための自動抑制装置なのかもしれません。
スルーせずに自分自身の心の深淵を覗こうとしたなら、自分の中にある綺麗ではない部分・・・・・・自分の心の底にあるヘドロを見なければならなくなるから。
それがあることを認めることは、一生懸命に構築してきたこれまでの自分だと思っている自分像を捨て去らざるを得なくなります。
本当は自分だと思っているものはただの概念でしかなく、すべてが今はそういう状態であるというだけのことです。
けれど、自分の心の中に聖なる美しい部分と共に、悪魔的なドロドロとした醜い部分があることを人は認めたくはないから。
自分が見えていない、見ようとはしていないだけなのに、平氣で『私にはそんなものは無いです』と言えるのは、ある意味で無知、無明だからです。
だから、フワフワ~なエンジェルが~とか、アセンデッドマスターが~とかそういうことだけを追い求める人たち、靈性や精神性の向上やスピリチュアルなことをしている人なのに残念さを禁じ得ない人たちは、氣づいてか氣づかずにか、結構平氣でマウンティングしてきたりとか、自分は凄い的なドヤ感を出してきたりします。
私は他の人とは違う、特別であるという考えは、ある意味で美味しいお酒であり麻薬です。
最初はそれほどではなかったとしても、中毒になってゆくとそこから抜け出すことはとても難しくなってくるのです。
本当は見えない世界のことを探求することと共に、自分の内面的な意識のことを見つめる、無意識領域の自動的な反応を俯瞰した意識で見つめることは両輪であり、それがなければ次第に歪み、時間が経てば取り返しがつかなくなります。
綺麗だと感じている所だけを掴まえて、汚いと感じている所を無意識にスルーすることは、誰もが無意識に行っていることです。
自分は悪くない、自分は穢くない、自分は他の人とは違う、自分は特別、自分は、自分は・・・・・・
自分のことを正当化して、憐れんで、または自分は特別だ、他の人とは違うのだという考えに囚われて本当のことを見ようとはしないのです。
自分のことを正当化して憐れむ自己憐憫の心も、自分は他の人とは違う、特別だとする自己重要性も、マインドの自動的な働き、反応です。
いい悪いの問題ではなく、もし無意識にそうした思考信念をエンドレスに再生し続けていたとしたら、同じことを繰り返し続けます。
人は自分が思うよりも無意識層で自動化、習慣化された思考信念による反応によって形作られています。
顕在的な意識領域よりも、潜在的な無意識領域は広大でパワフルだから。
だから、今やっていることについても、本当にそれは自分がやりたかったことなのかとか、このままの方向性でよいのかとか、大きな視点で適宜チェックする氣持ちでいることが大切になるのです。
自分の進んでいる道のりが、ただ過去の延長線上で思考の習慣性によってやるべきだ思っているからやっているだけなのか?
それとも、思考の習慣性によってではなく心からそれをしようと思って取り組んでいるのかをマインドではなくてさらに俯瞰した意識、インテリジェンスを持って見つめることを習慣化すると、今の自分にとって本当に必要なことが何なのかが見えやすくなります。
言い換えればそれは、頭の思考の保存性という習慣、癖を自覚、意識化して、肚の感覚、ハートの感覚と両方を見つめることです。
無意識に行っていること、思考していることの意識化ですね。
無意識の思考がいけない訳ではありません。
それは、形は違うけれど誰もが持っているモノです。
しかし、そういうものが自分には無いとして見ようともしない意識のままであれば、万物の中に在る陰と陽の側面、そしてすべては離れてなどいない、ワンネス、非二元(ノンデュアリティ)を本当の意味で感じることはなく、氣づきのシンクロは起こりにくくなるのです。
在るを意識しなければ、無視したままであれば、本当は何も無いことに氣づくことはないのです。
色即是空 空即是色
色(見えている世界)は空(見えない本質)そのものであり、空(見えない本質)は色(見えている世界)として在る・・・・・・見えている世界と見えない本質の両方を見つめることが大切なのです。
習慣化している無意識の反応が私たちに影響を与え続けているのです。
習慣化している自動的な反応を自覚していない・・・・・・つまり意識化されていない、氣づいていないことで、人間は氣づくまで同じことを繰り返し続けます。
そして、何でこんなことに・・・・・・と、自分ではどうしてそうなっているのかがわからなかったりするのです。
私たちは無自覚に無意識的に行っていることがとても多いのです。
たとえば、これまで長い時間かけて勉強してきたこととか、積み重ねてきたことが、実は今の自分にとっては本当はもう必要がなくなっていたとしても、思考的に考えればもったいないとか、せっかくここまでやって来たのだから・・・・・・と、無益に執着して続けていたりすることもあるのです。
なので、今、やっていることについて今まで続けてきたからとか、積み重ねてきたから・・・・・・という半ば意地のような形で続けていないかをフラットな視点で見つめてゼロベースで考え見極めることが必要なのです。
人間が習慣性の生き物であることを自覚していれば、これまでやって来たから何となく続けているだけ、という様な無自覚的な選択ではなく、思考と感覚の両方をより俯瞰したフラットな視点で見つめてより意識的な選択ができるのです。
マインド、思考が悪な訳ではありません。
ですが、マインドに囚われて感じていることを見ようとしないこと、つまり、自分に対して誠実ではない、無自覚に心に嘘をついて欺いていることが、私たちを真のインテリジェンスと繋がることを妨げているのです。
これまでがどうだったということではなく、ゼロベースでフラットな視点で見極めることを意識していると、見えるものがまったく違って来るでしょう。
一定の意識状態になれば無意識の思考習慣に支配されている状態からは解放されますが、それまでの間は氣づくこと・・・・・・つまり、意識的に自らの無意識的な思考習慣を見つめることがとても大きな助けになります。
~with all of my heart~
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眞穂乃 -MAHONO- (*^O^*)
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