続・すべてを糧として生きること

 

 

 

 

 

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↑ ↑ ↑

の続き的な感じです。

 

 

 

 

 

たとえ自分を深く傷つけた人であっても、それも自分の心を見るために投影されたスクリーンの登場人物。

 

すべては自分事であって、人の責任・・・・・・他人事ではないのです。

 

それは、誰がよくて誰が悪いということではありません。

 

そこに起こるべくして現象は起こっています。

 

人間の観点から見れば全体性が見えないために、とても不条理に感じることであっても、宇宙的なスケールからすればすべては条理・・・・・・互いのために必要があって起こっていることなのですね。

 

でも、それは誰かがよくて誰かが悪いから起こっていることではなくて、お互いそのことを体験する必要性があって必然的に起こっていることなのです。

 

繰り返しますが、どちらが正しくてどちらが間違っている・・・・・・ということではありませんよ。

 

 

 

あっ、そんなことは頭ではわかっているけれど受け入れたくない!と感じる方は、無理に受け入れる必要はありませんからね。

 

どんなことでも・・・・・・スピリチュアルなことに於いてもそうですが、ご自分が受け入れたくないと思うことは無理に受け入れようと思わなくても全然いいです。

 

こうしなければならない・・・・・・と条件付けにしてしまうのは、内容的にはどんなによいことであっても、それは毒にもなりうるのでね。

 

あくまでもご自分の感じることに正直に在ってください。

 

それが一番大切なことです。

 

無理にその時に受け入れようとしなくても、タイミングが来れば自然にわかることもあります。

 

あの時に話していたことはこういうことだったんだなぁ~~~と思う時が来て、心から納得して腑に落ちればそれでいいのです。

 

タイミングは人それぞれで、それに早いも遅いもまったくありません。

 

中途半端にわかったフリをするよりも、わからなければわからないと素直に認めることができた方が、精神性の成長は早いものです。

 

自分は何でもわかっていると思う人は、成長の余地があまりありません・・・・・・。

 

自分はすべてのことを知っている訳ではないことを知り、他から学ぶ氣持ちがある人は、いくらでも成長の余地があります。

 

 

 

物事を自分の観点以上の拡がりのある観点で受け取ろうとする時、それまでの他人事としての捉え方とはまったく違った景色が見える様になり、新たな感覚が湧いてきます。

 

それこそが自他という境界線の消失です。

 

人生において起こることすべてが自分に与えられたギフトであり、それによい悪いという判断を加えているのは自分自身の認識に他ならないのだと実感を伴う形で知るのです。

 

 

 

人間はよいことが起こると喜びに浸り、その状態でずっといたいと願います。

 

そして、悪いことが起これば悲しみに浸り、その状態を拒否して早く離れたいと抵抗します。

 

喜び、悲しみ、楽しみ、怒り・・・・・・感情を感じることは何も悪いことではありません。

 

よいと感じる感情も悪いと感じる感情も、どちらの感情も人として当たり前に感じてよいものです。

 

それなのに、人は喜び、楽しみなどのよいと感じる感情を尊び、悲しみ、怒りなどの悪いと感じる感情を排斥しようと努力し続けます。

 

けれど、やって来る思考や抱く感情は自分自身でコントロールすることはできません。

 

なぜなら、考えは自分で考えているのではなく、自分の周波数、意識状態に共鳴してやって来るものだからです。

 

考えがやって来た時に、よいと感じる感情も悪いと感じる感情も、どちらも感じるのが本来の姿なのです。


それを抑制しようとすることがとても不自然なことなのです。

 

それなのに、様々な要因・・・・・・家庭教育や学校教育で社会のルールに従うことにばかり重点を置いて人間を育てるものだから、私たちの中に『●●しなければならない』という概念、思い込みが刷り込まれてゆくのです。

 

本当に自分が感じていることよりも社会や家庭のルールに従うことを尊ばれる環境にいると、次第に自分の意志を持って行動することができなくなってゆきます。

 

なぜならば、受け入れられるためにはその方が都合がいいからです。

 

それに、自分の意見を伝えても、常に否定され続けると心が萎えてしまい、次第に抵抗できなくなってゆくのです。

 

そうして、やがては自分の感じることを否定し、自分自身の存在価値を過小評価してゆくことにつながってゆきます。

 

自分の考え自体、または考えたことを発することを否定され、親の、社会のルールの方を尊ぶように教育されてゆくと、自分の考えることは大したことではない、ダメなんだな・・・・・・と感じるようになります。

 

結果、どういう場面においても自分の感じることよりも相手のニーズに応えることを第一義に考えることが最善のことなのだと無意識に考えるようになります。

 

顕在意識領域・・・・・・頭の中の考えは、自分のことよりも相手のことを第一義に考えて行動することをよしとしています。

 

潜在意識領域・・・・・・心の中では、本当の自分はどう感じているのかをもちろん知っています。

 

通常の場合は頭の中の考えが優勢となっている場合が多いので、本当の自分がどう感じているかということは蔑ろとされ続け、頭の考えに基づいて行動し続けます。

 

その状態が続くと、顕在意識と潜在意識がアンマッチな状態なので、氣づいて貰えない心の声の方は行き場を無くし、そのフラストレーションが理由のわからないモヤモヤ、イライラとして現れてきます。

 

 

 

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この世界には現象があるだけで、そこにはただ事実が事実として在ります。

 

しかし、人間はその事実を自分にとって都合のよい認識で捉え、自分にとって世間にとってよいのか悪いのかの判断をします。

 

その働きは習慣となっているので、自分自身で様々なことに対してジャッジしているとは思っていません。

 

認識というフィルターを通して現象を見ていることに氣づいていると、認識によってジャッジをしていたとしても、然して問題とはなりません。

 

ジャッジをすることによって起こる考えに翻弄されることがないからです。

 

しかし、氣づいていないと、自分の認識で捉えた世界がすべてだと感じますし、自己認識によって感じる考えによって大きく心が翻弄されます。

 

考えと自分がイコールとなっているからです。

 

考え=自分

 

しかし、考えは自分自身でコントロールできるものではありません。

 

考えは自分が考えていると思っている人が大半だと思いますが、観察していればわかることですが、実際はこう考えようと思って考えている訳ではなくて、考えはやって来る性質のものです。

 

考えは自動的にやって来るものです。

 

やって来るものなので、自分ではコントロールすることはできません。

 

考えというのは、本来は今の自分を知るためのセンサーのようなものです。

 

自分が起こっている現象を見た時にどの様に感じ、考えるのかによって、今の自分の意識状態がわかるのです。

 

人は無意識的にですがコントロールできる訳もないことをコントロールしようとしていて、できないことを自分がダメな人間だからなんだと思い込み過ぎているのです。

 

 

 

何かを感じた時、考えた時、時にとても下種な内容があったとしても、それを殊更に責める必要はないのです。

 

そういうことを考える自分は何てダメな人なんだろう・・・・・・と自分のことを責めて否定することにより、無意識的に自分の意識状態を低下させているのです。

 

自動的にやって来る、自分ではコントロールできないことをコントロールしようとしても、それは徒労に終わるだけです。

 

はぁ、しんど!!!本当に疲れる・・・・・・。

 

そりゃ、疲れますよね・・・・・・コントロール不能なことをコントロールすることに力を入れているので、本来力を入れるべき所に力を入れることができないのですから。

 

 

 

本当に力を入れるべきなのは、自分の意識状態を下げないようにすること、意識状態を少しでも高い状態に保つことです。

 

私たちは生きている人間なので、様々なコンディションによって意識状態は変動します。

 

目覚めのレベルが上がれば、コンディションによる変動は小さくなりますが、それでも肉体がある限りはまったく翻弄されないということはありません。

 

意識状態が低ければ、どうしても感情や考えに巻き込まれやすくなります。

 

冷静に考えようとしていても考えられなかったり、普段はとてもやさしい人なのにイライラして誰かに八つ当たりしたり・・・・・・

 

肉体のコンディションが悪かったり、環境要因によって意識状態が低くなると、普段ならそう思わないようなことを考えたり、感情的になったりします。

 

けれど、そうなることが悪いのではありません。

 

そうなったとしても、俯瞰した観点で意識的に見つめる習慣が身についていれば、今の状態が普段の状態とは違っていることに比較的すぐに氣づけます。

 

しかし、考え=自分となっている場合には、その状態に翻弄されてすぐに振り回されてしまうのです。

 

感情に闇雲に振り回され続ければ、そこに葛藤が生じます。 

 

そして、そういう状態が続けば、全体性の視点から俯瞰して物事を観ずることはさらに難しくなるでしょう。

 

 

 

今の自分が感じること、考えることをジャッジしていて無意識にコントロールしようとしていることに氣づくことが必要かもしれません。

 

次に、自動的にやって来る考えや感じることを『今の自分はそう考えるんだな・・・・・・』と、ただ見つめるだけに留めるようにすることですね。

 

意識状態が高くても、何も感じない訳ではなくて、感じるし考えるけれど、そのことに捉われ続けないだけです。

 

それは、自分が感じていることをそのまま見ているからで、無意識にコントロールすることがなくなっているからです。

 

反応してしまう自分、そう感じてしまう自分に翻弄されないで、そう感じたり考える自分をそのまま認める、受け入れる。

 

いい悪いのジャッジをせずに、自分の感じていること、やって来る考えをそのまま体験することです。

 

自分の反応を観察していると、いかに無意識にジャッジメントをしているかがわかるようになりますよ。

 

無意識だから止めることはできない訳で、意識して観察する中で氣づくようになれば、やがて手放してゆけます。

 

 

 

そうして自分で自分を縛っているものから解放されてゆけば、何も制限の無かった子供の頃のような、本質的な自分らしさを発揮することができるようになってゆくのです。

 

あなたも私もどちらもそれぞれに素晴らしい人で、本質の部分ではみんなやさしいのです。

 

どの人も、今はそういう状態にあるというだけで、その状態は常に変化しているものなので、この人はこういう人だと限定して、定義して見ることもありません。

 

過去・現在・未来という時間軸自体が幻想で、すべてが今に存在するので、そこにはただ現象が在るだけなのです。 

 

 

 

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頭で考えたことではなくて、自動書記のようにただ流れる情報を書いたので、取り留めない内容ですが・・・・・・。

 

内容的にはとても大切なことだと思います。

 

 

 

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~with all of my heart~ 

 

Soul Creation Artist

眞穂乃 -MAHONO- (*^O^*)

 

 

 

 

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