潜在意識の自動的な働き3
私たちは無意識にジャッジしていると言いました。
この世界で起こっていることは、ただその現象が起こっている事実があるだけです。
事実はただひとつというか・・・・・・それしかありません。
私たち人間はその物事を見た時に、それぞれの価値観によって様々な見解を心の中で述べます。
それは、人の数だけ違います。
人間は無意識に自分の中の価値判断で物事を評価しています。
心の中で善い悪いの判断をしていて、ジャッジをしているのです。
無意識にあれはいい、あれは悪い・・・・・・と心の中でジャッジしていて、それが無意識なものだから、自分がどれ程、心の中で自分自身のこと、他人のことを批判し評価しているかを知りません。
ジャッジっていうのは、常識的に考えたらそれはないでしょう?とか、普通はこうしますよね?っていう感じで、自分が考える常識の枠という名のフィルターを通して起こる現象を見て判断している状態ですね。
それはまるでそれぞれが違う色の色つきサングラスをかけている様なものです。
価値判断を行っている前提条件・・・・・・サングラスのレンズの色がそもそも違う状態で「あれは赤だ!」「いや、青だろ?」「いいえ、黄色よ!」と言い合っている様なものです。
それは、物事をありのままに見ているのではなくて、自分の価値観というフィルターを通して物事を見ている状態です。
常識では・・・・・・とか、普通は・・・・・・ってよく使うフレーズなのですが、常識とか普通って、その地域や国によってまったく違うものです。
自分の狭い世界の常識って、他では非常識なことってたくさんあります。
ましてや海外と比べたら、日本の常識は海外の非常識・・・・・・ってこともたくさんあります。
つまり、常識とか普通って、共通している部分もあるけれどそうではない部分もたくさんあるということです。
常識とか普通っていう概念って、社会を円滑に成り立たせるために作られたルールであり、本来は縛られるためのものではなく、自分たちがスムーズに生きやすくなる様に作られたものなのですが。
今、人間は「こうしなければならない」とするルールに縛られてしまっている状態なのです。
それは、マインドと私たちの関係と似ています。
本来はマインド(頭の思考)は私たちが生きるために働くマシンであるはずでした。
魂の声・・・・・・ハートの声が本当の自分の声で、マインドは上手く使えば便利なマシンなのですが、マインドの声に翻弄されてばかりいると、ハートの声が聴けなくなってしまいます。
幼少の頃からマインド主導で生きていれば、それが当たり前の状態になるので、ハートの声を聴くということ自体、理解ができないということもあります。
今は、本来はマシンとして働くはずのマインドに無意識に主導権を握られてしまっている状態で生きている様なものなのです。
世界観が広い人は、常識というのがいかに曖昧な概念なのかを知っています。
私たちは常識とか普通というと、それは万人に共通した概念だと思っている部分があります。
しかし、もし本当にそうなら、人との間に価値観の相違による人間関係の悪化など起こり得ないのです。
血縁関係、環境、宗教的なつながりの中ではある程度共通した認識はあります。
しかし、育った環境によって同じ国の人同士でも価値観がまったく違うこともあります。
どの価値観が正当でどれが間違っているということは本当はありませんが、人間はすべてにおいて正しい!正しくない!という争い・・・・・・小さな戦争を常に心の中で行っているのです。
常識とか普通って概念でしかなくて、確たるものって本当は何もないのです。
けれども、人は自分の頭の中にある常識や普通にとかく縛られがちです。
常識的にはどうなんだろう???と常識から外れることを極端に怖れて外側の人のことばかりに意識を向けていると、自分の本当の心はどんどん見えなくなってゆきます。
常識とか普通っていう通念的なことって、実は意外と曖昧だったり、共通している部分もあるけれどまったく違っている部分もあったりします。
そういうことに氣づいてくると、世間では・・・・・・普通は・・・・・・という非常に曖昧な概念に絡め取られ、縛られている自分にも氣づいてゆきます。
それぞれの人がそれぞれに親や社会によって作られたルールに無意識に縛られて生きていて、どこかで閉塞感や息苦しさを感じていて・・・・・・。
だから、一生懸命守っているそのルールから外れる行為、行動をする人、そういう枠を感じずに自由に生きている人を見ると、自分の枠の正しさを脅かされる感覚になります。
なので・・・・・・そういう人を咎めたり批判したくなります。
本当は、その枠で生きていることが息苦しいのだけど、それでも自分は常識を、普通という感覚から逃れられないから・・・・・・自分が逃れられない(と思い込んでいる)枠を飛び越えて行動する人のことが腹立たしく、見ていてイライラしたりするのです。
事実はただ事実として在るだけ。
ですが、そこに様々な条件付け・・・・・・ジャッジするのは私たちです。
私たちは潜在意識に刷り込まれている様々な概念の目に見えない枠に囚われている囚人のようなものなのです。
ジャッジをすることが悪いということではありません。
ジャッジをしていることに氣づいている状態であれば、それは大きな問題とはなりません。
しかし、氣づいていない状態で心の中でジャッジメントを繰り返してゆくことが、私たちの心を大きく蝕んでゆくのです。
だから、実は自分がそういう目に見えない枠に囚われていることに氣づくことがまずは大切で、その枠から自由になってゆくことが大切なのです・・・・・・。
まずは自分自身が囚われていることに氣づかなければ、そこから離れることはできないのです。
ジャッジする価値観は、両親や生育環境の中で育まれるものです。
そしてそれは、その血族の中、地域社会の中、何らかのグループの中で受け継がれ、持ち越されてきたものです。
私たちは、誰もが両親や周りの大人たちの価値判断の刷り込みを受けていて、自分自身を生きているようでいて、実は自分自身の心を蔑ろにして生きているということです。
価値判断の刷り込みの影響をあまり受けないで、自分自身を信じて生きている人も中にはいらっしゃいます。
また、生育環境的に非常に恵まれていて、価値判断の刷り込みが非常に穏やかというか、強制的でない、本人の選択を尊重してくれる環境に育つ幸運な人もいるでしょう。
しかし、子とものためを思って為される教育という名の下に、強力な価値判断の刷り込みをされてしまい、自分自身の考えることや感じることを信じることができないまま大人になる人もたくさんいるのです。
だけど大人になれば自分の意思もしっかりとあるのだから、親に言われたこと、刷り込まれたことにそこまで影響されるものではないのでは???と思う人もいるでしょう。
けれど現実は、ほとんどの人が親や世間の常識や価値判断をそのまま引き継いで、その受け継いだ常識や価値判断に則って無意識に生きています。
または、その刷り込まれた常識や価値判断と自分自身の心の声との間で悩み葛藤しながら生きています。
それはまるで、自分にサイズの合わない靴を履かされ続けるようなもので、本当はとても歩きにくく心地のよいものではありません。
靴ならば、自分に合わないものを履いているとわかります。
しかし、価値観や常識は見えないものなので、自分ではなかなか他人の価値観で生きていることがわかりにくく、実際にとても窮屈な思いをしていたとしても、どうして自分が苦しいのかがとてもわかりにくいのです。
~with all of my heart~
Soul Creation Artist
眞穂乃 -MAHONO- (*^O^*)