ジャッジしてはいけない?どうして???
よくある勘違いだと思いますが、ジャッジをしてはいけない訳ではないのです。
もちろん、しない方がいいに決まっています。
ですが、『してはいけない』という制限を自らに課してしまうと、結果的に制限から離れてゆくために行っている行為が、反対に自分に制限を課し続けることになってしまいます。
本末転倒・・・・・・です。
そうではなくてね。
自分がいかに無意識にジャッジをしているかに氣づくこと、氣づいていることが必要だし大切なのです。
ジャッジをしてはいけない?どうして???
そりゃ、しない方がいいのだろうけど、しない!と固く心に決めたとしても、できないものは仕方ない。
投げやりになれということではありません。
ジャッジはしているし、それをやめることもできない今の自分を、心の中で蔑んだり自己嫌悪に苛まれたりし続けないで、今はそういう状態なのだと見つめてくださいってことです。
見たくないからずっと無意識に自動プログラムにしてしまっているのですから、見ようとすること、氣づこうとすることは、最初はとてもしんどいことかもしれません。
・・・・・・隠していたい最悪(だと自分が感じる)な自分を受け入れるのは、誰も心地のよいことではないですからね。
確かにジャッジすることが少なくなれば、とても楽になります。
けれども、ジャッジをしてはいけないのではなくて、無意識にジャッジしている様子に氣づくことが大切なだけです。
無意識にしていたジャッジに氣づけるようになったのなら、それはとてもとても素晴らしい進歩です。
ジャッジしていることに落ち込む必要なんてまったくなくて、むしろそれはとっても素晴らしいことです。
だって、ジャッジしている自分に氣づけているのだから。
反吐が出そうな自分の恥部というか・・・・・・嫌な部分だからこそ無意識に隠していたことを、ちゃんと見つめようとしたからこそ発見できたのだから、むしろめっちゃ進歩しているのです!
そんな自分をもっともっと褒めてあげて!って感じです。
止めることはできなくても、氣づけた!それだけで御の字で十分なのです^^
ものの見方が、『(ここはできているけれど)ここもあそこもできていないよね!』というように、できていないことにフォーカスしていると、自分のことも他人のこともだめな部分を見ている状態になります。
そうではなくて、『(ここはできていないけれど)ここもあそこもできているよね!』とできていることにフォーカスしていると、自分のことも他人のことも素敵ないい部分を見ている状態になります。
物事の肯定的な部分を受け取るか、それとも否定的な部分を受け取るか・・・・・・ということなのですが、それは無意識に構築された考え方のパターン、癖、習慣です。
だから、そのパターン、癖、習慣を知ること、氣づくことが大切なのです。
なぜなら、知らない、氣づいていないで無意識のままにしておいたら、ずっと無意識の習慣に囚われ続けるからです。
自分がいかに無意識にジャッジをしているかを氣づくようになってくると、ジャッジをした後に、無意識に脳内で創造するストーリーに巻き込まれていることも次第にわかるようになってきます。
氣づくと、そこで自動的に流れていたプログラム作り出すストーリーがストップします。
ストーリーに巻き込まれることが無くなってくると、意識状態がとても安定した状態になります。
そうすると、結果的にジャッジすることが減ってゆくのです。
瞑想で何も考えないようにしているのに考えてしまって、罪悪感を持ってしまうことと似ているかもしれません。
本来、考えは自動的にやって来るものなので自分でコントロールすることはできないのに、できないことをし続けて、できないことに絶望したり、自分を駄目な奴と認定したり、さらにジャッジをしたり・・・・・・
でも、流れてくる思考を無理に止めようとする必要はなくて、流れる思考をただ眺めている状態でいると、次第に思考の流れから離れて瞑想状態に入ってゆくのです。
ジャッジすることは無意識の心の習慣です。
だから無意識に行っていることを意識化してゆくことが大切なだけです。
意識化しなければ、無意識のままの習慣を止めることはできないので、自分の考えを観察すること、考え方のパターンに氣づくことが大切なのです。
だから、ジャッジをしている状態を見てください、となるのです。
つまり、先ずは氣づいてください・・・・・・なのです。
氣づくだけでいいんです。
ジャッジをしてはいけないって、それ自体が制限ですぅ・・・・・・(汗)
ジャッジをしてはいけない!としてしまうと、また新たな制限を作り出してしまいますよね。
だから、たとえ今たくさん心の中でジャッジをしていたとしても、ジャッジしていることに対して罪悪感を感じる必要はまったくありません。
そういう自分をしっかりと見て、知ってゆくこと・・・・・・氣づいてゆくことを続けてゆけばいいのです。
氣づかなければ、知らなければ、意識化されなければ、考えがやって来た時に無意識に作るストーリーに巻き込まれることを止めることはできないですから、無意識のままにしないこと・・・・・・氣づくことはとても大切なのです。
ジャッジをすることが悪いのではなくて、もし問題があるのだとすれば、無意識にジャッジをしていることが問題なのです。
無意識にジャッジをすることにより、マインドが作り出すストーリーに巻き込まれることで意識状態が低下することが、人間を本来の創造性から切り離してゆくのです。
そして、ストーリーに巻き込まれ続け、悲劇の主人公を演じる・・・・・・悪循環エンドレス(笑)
だから先ずは、マインドという悪魔が無意識に習慣にしているプログラムに氣づいてゆくこと、無意識に行っている習慣を意識化して行くことが必要な訳です。
もしジャッジしていたとしても、それに氣づいているのなら問題はありませんし悪くありません。
ジャッジ=悪ではないのです。
正しいとか正しくないとか、悪だとかって、それがジャッジだからねってことです!
無意識に行っている言動、習慣が人を作っています。
私たちが自分で思っている以上に、認識が人生を創っているのです。
なので、自分が何に対して反応しているのかを意識的に見ること、自分の認識について知ってゆくことは、とてもとても大切なことなのです。
ジャッジをすることに罪悪感を持たないでください。
素敵な考えの自分も、ジャッジまみれの自分も、それを含めてすべてが自分なのですから。
両方あってそれでいいのです。
人のことを悪とする感情を感じた時、それは自分が無意識に行っているジャッジメントに氣づくために与えられた機会かもしれませんよ。
感情に振り回されそうになったら、振り回されていることに氣づいた上で、状況を俯瞰し感情が発生する裏側をよく観察する客観的な視点を持つように意識するといいですよね。
弱い人間は、ズームアップした視点から・・・・・・自分視点からすべてを語り、自分の言いたいことしか言いませんし、自分にとって都合が悪いと感じることについては、人からの話を一切受け取ることができません。
本当に強い人は、自分の中の両方の側面を知っていて、それを受け入れた上で周りとも調和しながら人生を歩んでいます。
だから、自分にも他人にも寛容なのです。
ジャッジはしてはいけないのではなく、ジャッジをしている様子に氣づくことが何より大切なのです。
~with all of my heart~
Soul Creation Artist
眞穂乃 -MAHONO- (*^O^*)
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