すべてのことは自らの内側の神殿に在る
宇宙の流れ、状況を色々なソースから受け取り、それで現状を確認して次につなげてゆくのはいい。
だけど、だからこうなんだなぁ・・・・・・仕方ないよね・・・・・・と諦めや自己正当化のためにそれらを使っているのだとしたら、その因から生じる結果はまったく違ったものとなる。
どれだけ素晴らしい鑑定を受けたとしても、メッセージを受け取ったとしても、受け取る姿勢そのものが変化しなければ、結局は深い部分には本当のことは届かない。
中には非常に大切なエッセンスの部分をお伝えしようとしても、『そんなことはどうでもいい。それが私にとっていいのか悪いのかを教えてください!』という類いのことを仰る方がいます。
一応、その方にとってそのことがどちらになるのかはわからないけれど、お伝えはしますが・・・・・・いいか悪いかは自分自身の心が決めることなので・・・・・・。
本当は起こっていることにはいいも悪いもなく何もないのですが。
こういうことを言う人は人の話を自分の都合のよい様に曲解し、何かあれば他人の責任にして自分は悪くないと自己正当化し続け『何でなんだろう?』と外側に原因を探し求めて、結局は同じことを繰り返し続けることになります。
何故なら、自分の中の見たくない部分を見ようとはしないからです。
指摘したとしても逆上したり、自分にはそんな部分はないと言い切り、まったく受け入れようとはしないのです。
本当は、いいとか悪いというのはその人の心が決めるものです。
表面的に見れば一見すると悪いことの様に見える出来事の中にも天のギフトがあります。
物事自体はただ起こっているだけなので、本来よいも悪いもどちらもないですが、その現象・・・・・・起こった物事を見てよい、悪いを決めているのはその現象、起こっている事実を見た人の解釈です。
ですから、お伝えできるのは『(あなたにとって)よいことに見える』か『(あなたにとって)悪いことに見えるか』ということでしかありません。
私は鑑定の精度も大切だと思いますし、そこはしっかりとする必要はあるともちろん思います。
それは最低限の当たり前のこと。
しかし、認識の幅を拡げること、無意識に持っている囚われから解放することが優先、もしくは平行してその教示がなかったとしたら、鑑定の精度がいくら高くとも無意味・・・・・・とまでは言わないまでも同じことを繰り返すことになるのだと思っています。
鑑定やセッションは、ご自分の認識で見ていると見えない、見えていない、ご自分では悪いことだとしていることの中にある光を見つめるお手伝い、物事の中にある光明を自力で発見してゆくためのお手伝いなのです。
ですから、鑑定で導き出された結果をお伝えする中にも、その道筋・・・・・・その方の精神が、在り方が変容してゆく道筋を意識しながら、なるべくその方向に氣づいてゆく様なものにすることが大切であると思っています。
ただお伝えするだけならば誰でもできるでしょう。
ですが、その方にとって現状どこまでお伝えすることがベストなのか、どの様なお伝えの仕方が最善なのかを論理的に考えながらお話することができるのが本当なのだと思います。
相手を注意深く観察し、自分の見たもの、感じたものをただ伝えるのではなく鑑定の結果が相手により深いレベルで伝わる様に心を砕くこと・・・・・・このことを意識しているか否かで結果はまったく違ってきます。
もちろん、結果的にポロッとお伝えしたことが功を奏することもあります。
しかし、ただ神任せで起こることはすべて必然だとして、何も考えないで行った結果と、最後には神に委ねるけれども、様々なことを意識して心を砕いて心を遣って最善を尽くした結果とでは、もう全然、まったく違います。
なので、カウンセリングセッションは、天とつながり微細なメッセージを受け取る感性と、受け取った内容をどの様に伝えれば最善なものとなるのかを精査しながらお伝えする理性が両輪となることが不可欠だと考えます。
つまり、右脳的な感性と左脳的な理性の両輪が共に働いてこそ、智慧となるし、インテリジェンスに基づいたセッションとなるのです。
多くのツールは有効ですが、人は自分の受け取りたいようにしか受け取らないものです。
ですから、認識の部分が変わらなければ、本当のことは・・・・・・真意はなかなか伝わらないのです。
即効的に取り除くとか、外すというメソッドというのは、まるで雑草の草の部分を刈っているようなもので、一時的にはスッキリするように思いますが、根っこが残っている訳なので、後からまた再び生えてきます。
それと同じように、根本の認識が変わらなければ、枝葉のものをいくら刈り取っても、一時的なものでしかありません。
認識を変容させてゆくことは、とても地味で即効的なものではありません。
長年、培われた認識の癖、習慣は一時的に氣づいたとしても、その癖が癖でなくなるまでの間、どうしても元の状態に戻ろうとするものです。
ですから、そのことに氣づいた状態で無意識の癖となっているものを意識化することが必要なのです。
それに、お伝えする側がいくら癖となっているものを指摘してそこに着目するように促したとしても、本人が認めて受け入れて納得して取り組もうとしなければ、お伝えする側の人間にはどうすることもできません。
羽生結弦氏のコーチのオーサ氏が、『選手のコーチを引き受ける時に、私の方法は時間がかかることを伝える』と仰っていました。
どんな有名な選手であっても、1年半は基礎の身体作り・・・・・・つまり土台を作ることからはじめるからです。
人それぞれに見あった身体を作り、しっかりとした土台ができてからジャンプを作り上げてゆくのです。
その土台を作る過程は、ある意味で地味ですぐに即効的な効果が見えにくいものです。
選手の側が土台をしっかりと作ることの意味、コーチの目指している未来像、それらの本当の意図が汲み取れなければ、その先にある自分自身の変容した姿を共有して思い描けなければ、地道に継続的に取り組んでゆくこと、そこから結果を出してゆくことは難しいでしょう。
旦那さんや私がお伝えすることも、とても根本的で地道なことです。
それは即効的に、劇的に変容する・・・・・・という様な性質のものではない場合も多々あります。
なので、本来の在り方を意識して、私たちのお伝えすることを自らの心に受け入れて実践して自分自身の血肉にしてゆくのには少し時間が必要なこともあります。
そして何より、取り組むためには本人の意志が不可欠です。
いくら私たちがこうしなさい、ああしなさいと言ったとしても、本人がその氣になって取り組もうとしなければ何も成されないのです。
だから、たとえば私たちのお陰で在り方が大きく変わったとお礼を言われることがありますが、それはお互いがあっての共同創造なのだとお伝えするのです。
私たちがいたから氣づけたという側面もあるかもしれませんが、もしそのことをご本人が自分の人生を生きてゆく中に反映しようとしなかったとしたら、何も変わりはしないでしょう?
指摘されたことや伝えられたことを自分自身でしっかりと考えて、自らの人生を生きる糧にしたのは他ならぬ自分自身。
だから、私たちや他の周りの人たちに感謝することと共に、それと同じ位、氣づいたことを地道に実践してきた自分自身のことも『よくやったね!』ってたくさん認めて褒めてあげて欲しいのです。
意識を認識を変えること、氣づくことは一瞬にしてできたとしても、それを肉体を持った身で定着させてゆく・・・・・・つまり、その新たな意識の状態が安定的に普通の状態・・・・・・定常化するまでには一定程度の時間が必要です。
昨今はネガティブなものを簡単に消すとかいうお手軽メソッドが大流行しているようですね。
ですが、その人の人間としての土台を醸成してゆく課程において起こる体験によってもたらされる感情は、自らのことを知るための大切なものです。
その基となるものをただ消すことは、鏡として写し出す鏡を曇らせて見えなくしているだけであって、そこに何があるのかな・・・・・・と私などはその様に感じます。
何を選ぶのかはその人次第なので、どちらでもいいことではありますが。
あくまで私の感じるところではありますが、消し去って楽になったと喜ぶのは『見えなければ無いのと同じ』と言っている様にしか思えません。
何も氣づきのためには苦労しなければならないと言っているのではありません。
そうではなくて、楽に氣づいたとしても、その氣づきが自らの糧になっているのであれば全然いいと思いますが・・・・・・
本来氣づくことが必要なことをスルーする形でただ消した、無くしたということは、どういうことなのかを考えてみると、それが一体何を意味しているのかがわかると思います。
生きていれば、いいと思うことも嫌だと思うことも、どちらのことも体験してゆくのは至極当然のこと。
そのことをどの様な意識、認識で受け取るのかを体験し、苦も楽も自らの心の投影であることを体験を通じて見ているだけです。
簡単に、お手軽に、痛くないように、苦しくないようにと、早く解放してあげたいという氣持ちはわからなくはないですが、それって相手の方の生命力、無限の可能性を信頼していないから、即ち自らの生命力、心の無限の可能性を信じていないからなのだろうな・・・・・・と感じます。
それは本当のインテリジェンスではないと思いますし・・・・・・ただただ感性を鈍らせているだけにしか見えません。
あるものを見えない領域に押し隠して、浮かび上がるものを押し固めて、それで『私には何もない』と言っている様にしか見えません。
実際にそれをしている上の方をお見かけする機会がありましたが、エネルギーが膠着していて『私はすごい』のだと無意識的に思っている・・・・・・『私に感謝しなさい』、『私を崇め敬いなさい』という歪んだエネルギー。
・・・・・・マインドがより強まっている様にしか見えませんでした。
それを行っている人が、心の奥底に色んなものを押し固めて自分には何もない、と言っている様にしか見えないメソッドって一体・・・・・・。
すぐ効く、楽になるっていうものって、爆発的に流行りやすいですよね。
何故かというと、人は楽して 、お手軽に、簡単に・・・・・・を求めているから。
まぁ、面倒なことは極力したくないのだけど、だけどやっぱり楽にはなりたい。
自らの心の深淵を覗くことは、いいも悪いも何もかもすべてを持っていることを受け入れて認めることなので、できれば誰も自分のそんな部分は見たくないのです。
自分の中にある答えを見ようとしないで、何とか楽にお手軽にできることを求めるのは、痛みや苦しみを避けようとする人間の心の癖です。
自分にとって都合の悪いことを見ないようにしていればマインドは何時でも安泰だから。
だから、消し去った、無くなったとしていれば上澄みの所は綺麗なのでしょう。
しかし、その底・・・・・・自らの深淵にあるよいも悪いもどちらも在るカオスの領域、聖も悪もどちらも持つすべてなるエネルギーである自分自身を見ないようにして認めてはいない訳なので・・・・・・。
特にね・・・・・・ここだけの話、自分はすごいとか偉いとかと心密かに思っている(実際はどうなのかは知らない)人は、そんな自分の奥底にある汚いと思うものや嫌なものは認めたくないのです。
プライドがエベレストよりも高いので、自分はそういうことは卒業したのでもうないとか平氣で宣う。
いや、そんなことを言っていてもエネルギーを見ていればわかるし・・・・・・一目瞭然ですけどね。
楽になった~というのは結構なことですが、その状態になってそのままその楽に甘んじていれば、ただ同じ所を停滞しているだけなのではないかと思います。
それもプロセスなのでしょうが・・・・・・。
苦しみや痛みを感じることに対してジャッジして悪いこととしているから、それを取り除く・・・・・・とか、癒す・・・・・・となる。
けれども、そういう取り除くとか癒すことというのは、結局は対処療法でしかありません。
行う側がジャッジをして相手の可能性を信じていないのだから、当然だと思います。
受け続けても、何度対処しても、行う側がジャッジの心で行っているものは、結局は何も変わらないのです。
雑草の根っこを抜かないで、上の草の部分を苅り続けているだけ。
今、この時、人間として生きていることをジャッジの心からではなくよりフラットに見つめれば、嫌なことを消して早く楽にお手軽に・・・・・・とはならない。
それを嫌だとしている認識を、何をジャッジしているのかを無意識な状態から意識化してゆく、そういうスタイルのものでなければ、どれだけ素晴らしい内容のガイダンスを与えたとしても、受けた人が自主自律した人とはなってゆかない。
私は相手を癒したいとか、救いたいなどとはまったく思わないです。
癒したいとか、救いたいと思う行う側の心の裏側には、自らが癒されていない、救われていないがあることを知っているからです。
もし、やりたいことがあるのだとしたら、それは、その人の本質的に持っている潜在的な可能性が開花し、人生をよりクリエイティブに自らの内側に持っている力に氣づいて生きることをサポートしたいだけです。
相手の今の表面的な状態だけを見るのではなく、その存在としての価値を無条件に信頼していれば、そのことにこちら側が心を開いて信頼していれば、ただお逢いするだけで、お話しするだけでお相手が勝手に氣づいてゆくのです。
以前から何も変わらずのスタンスではあるのですが、人を癒したい訳でもなく、救いたい訳でもないことを、一度ハッキリと文章にしておこうと思いました。
すべての体験がプロセスであり、何を体験するのも自由なので、どれがよくてどれが悪いということはありません。
ですが、人がいいと言っているからいいとするいう様な、自らの心の響きを無視するような選択はしないでねって思います。
すべてのことは自らの内側の神殿に在るのだから。
~with all of my heart~
Soul Creation Artist
眞穂乃 -MAHONO- (*^O^*)
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