祈りについて

 

 

 

 

祈りについて

 

 

祈りって、外側の何かについて祈っているとしても、それは外側の対象物に対して行っているのではありません。 

本来の私たちは分離していないひとつのものなので、外側に対して祈っていたとしても、それは結局は自分自身に祈っている・・・・・・対象がないものなのです。

 

 

 

祈りを偽善だとか、祈るより前にできることをしようよ、という声をよく見ます。

 

何か災害が起きた時などは、まずはできることを、現金を送るとか、必要な物資を送るだとか、現実レベルで自分たちができることをして貢献することは、当然必要なことだと思います。

 

実際的な意味ではそういうことでしかお役に立てないでしょうし、そういうできることを何もせずに祈ることを免罪符にしようとするのは、少し違うな・・・・・・とは思います。

 

 

 

本来の祈りとは、対象があってそこに作用するために行うものではなくて、より深く真の自分自身・・・・・・つまりは本来の私たちであるディバインセルフと統合された自己、ワンネスの感覚を感じるために行うものなのだと私はイメージしています。

 

しかし、そこに分離感に基づく我の介入があると、誰かを救うために・・・・・・とか、私たちはいいことをしているというように、自己満足的に自分自身の行為に酔いしれているような感じが漂ってきます。

 

何やら自分が何かをしてあげているのだ、というような雰囲氣がダダ漏れで、そういうのを周りで見ていると、それが透けて見えていて感じがとても悪いのだと思います。

 

 

 

結局、そういうエゴから発せられる行為は、どう転んでも真の貢献とはなりません。

 

よく、光の○○○を立てるとか、そういうことをおっしゃる集団がいますが、そのエネルギーの根底からエゴの欲求に捉われているものを感じると、何を行う時にも共通していることではありますが、行為そのものがどうという話ではなくて、そこに乗る意識がとても大切なのだと改めて教えられます。

 

エゴの欲求に捉われているのに、そのことに氣づいていない状態、エゴを使いこなすのではなく使われている状態が、根底の氣持ち悪いエネルギーを生み出しているのでしょうね。

 

 

 

私たちは生きている人間なので、自分たちが現実レベルでできる限りの貢献をすることはとても大切なことです。

 

その上で、祈る・・・・・・相手を救おうとか、助けようというような上から目線的な分離感バリバリの氣持ちの悪い意識ではなくて、分離感があることに氣づいている状態で、私たちは本当は離れていないことを知るために、純粋な意図を乗せて祈る。

 

今は問題に見えているけれど、それが必ず光に基づいて影を見せてくれているものなのだと氣づいてゆくために・・・・・・。

 

行為や規模が大切なのではなく、そこに向ける意図が肝要であり、相手に見ていることもすべては自分自身なのだと祈りを通して氣づいてゆくことなのだろうと思っています。

 

 

 

少なくとも、私はそういう意識で集合の祈りを行っています。

 

最初はどうして私が呼びかけて集合の祈りをするのかがわかりませんでしたが、行ってゆくうちに色々と見えてきたことがありました。

 

祈りは、すべては自分なんだな・・・・・・と自分に還ってゆくもの。

 

私はそういう意識で毎週の集合の祈りと新月&満月の集合の祈りを行っています。

 

 

 

 

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~with all of my heart~ 

 

Soul Creation Artist

眞穂乃 -MAHONO- (*^O^*)

 

 

 

 

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