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答えはすべて自分の中にある ~メンターの姿に教えられた自分の生命を生きること~

 

 

 

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私、もしかすると今はそんな印象はないかもしれませんが、昔は

 

『人生は修行なんだ。辛いものなんだ・・・・・・他の人は知らないけど、少なくとも私はそうなんだろうな・・・・・・』

 

と真剣に思ってました。

 

昔、月1で通っていたお寺の住職(私がメンターだと思っている方)とお話ししていた時に、ぽろっとその信念が口に出たんです。

 

どういう話の流れだったのかは覚えてないのだけど、確か私に起こっていることをお話ししていて、私がその状況に甘んじていることに対して、

 

『それが私の修行なんだと思ってます(笑)』

 

と言ったんです。

 

その言葉の裏には、人生は修行の様なもので、根性と堪え忍ぶ忍耐が必要なんだという、諦めにも似た私のモノの見方、概念がありました。

 

その言葉を発した直後に、住職は即、

 

『(人生は)修行ではないよ。あなたがそう捉えているだけで。その我慢の、忍耐の思考の元を見ないと何時までも同じ。』

 

と、一語一句同じではないけれど、こういう内容のことを言われました。

 

そういうことだと諭されるのかとばかり思っていた私は、予想外の言葉にビックリしてしまい、しばらく唖然として黙りました。

 

しばらくして、

 

『それはどういうことですか?』

 

と聞き返したのだけど、それについては答えてはくださいませんでした。

 

 

 

先生は何時もそうでしたが、ヒントはお与えにはなりますが、具体的な答えはくださらないのです。

 

それはヒントは渡すけど答えは自分で見つけなさい、ということ。

 

∞ 答えはすべて自分の中にある ∞

 

そういうスタンスのメンターの導きを得たことは、とても幸せなことだったと思います。

 

 

 

それまでの私は、間違いなく我慢が美徳だと思っていたし、そういう生き方しか知らなかった。

 

我慢することで溜まり滞るエネルギーが腐り、とんでもないことになっていました。

 

性格悪いし傲慢だな・・・・・・と、今となっては思いますが、家でも会社でも

 

『私が大人の対応で我慢しているから成り立っているんだ!』

 

とか本氣で思っていました。

 

で、何だかわからないけど、いつも心の中でプンスカo(*`ω´*)o怒っていました・・・・・・

 

今考えれば、自分で勝手に思い込んで大人の対応していたことで溜め込んだ毒が、全身に廻っていたのだと思います。

 

その考え方は、自分を守るために自分の存在意義を感じたいが故に、防衛本能的にやっていたことです。

 

自分では氣づいてはいませんでしたが、究極、我慢することで、被害者面をすることで自分にメリットがあるからこそ、その状態を無意識にキープし続けていたのですが。

 

メンターから放たれた言葉によって、徐々に無意識に自らが作り上げた概念の枠に縛られていたことに氣づかされていったのです。

 

そして、やがて何かがガラガラと崩れてゆきました。

 

・・・・・・「私」が●●してあげているとか、「私」の我慢の上に成り立っているとか・・・・・・何て傲慢だったのだろうか・・・・・・

 

私がこれだけ自分のことを犠牲にしてまで周りに尽くしているというのに、何も見返りがないことに何時もプンスカo(*`ω´*)oしていて・・・・・・

 

さらに自分を犠牲にして思いを圧し殺して周りに尽くして・・・・・・思うレスポンスがないことでプンスカo(*`ω´*)oしたり落ち込んだり・・・・・・

 

しかも、完全に

 

『私、これだけいい子にしているんだから、ちゃんと認めてね、受け入れてね、愛してね』

 

と、ギブ・アンド・テイクな条件付き・・・・・・

 

私は愛されていない、愛されないという状態を前提として、愛してほしいから周りの人たちの顔色を窺って、周りの人の都合のよいように立ち回る。

 

動機は「愛されたいから」という愛のニーズからで、真に相手のためではなく・・・・・・自分のためでしかない。

 

そんな自分のことばかりしか考えない、自分のことを大切に扱わない私が、周りからも大切にされる訳もなく・・・・・・

 

葛藤を一層深めていましたね。

 

 

 

もちろん顕在意識的には見返りを求める的なことで動いていたつもりはありませんでした。

 

けれど潜在意識的には

 

『私は自分を犠牲にしなければ誰からも愛されない』

 

と思っていたし、愛を得るために自己犠牲の精神を貫いていました。

 

そして自分が思う形で報われないと、心の中で拗ねてひとりでプンスカo(*`ω´*)o´してた・・・・・・

 

どれだけ見返りを求める精神構造でこれまで生きていたのだろう・・・・・・と愕然としました。

 

 

 

★ザ・歪んだ自己犠牲の精神★

 

これ、本当に要らないですね。

 

意識が変容して自己という感覚が変容した上での奉仕はいいでしょう。

 

しかし、私を見てほしい、認めてほしい、愛してほしいという思いからの奉仕はただの自己犠牲でしかなく・・・・・・

 

そこからはよい循環は生まれないです。

 

 

 

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「与えている」と「与えられている」はセットなんですよ。

 

「与えている」ことで「与えられている」ことがあり、「与えられている」ことで「与えている」ことがある。

 

「助けている」ことで「助けられている」ことがあり、「助けられている」ことで「助けている」ことがある。

 

すべてはコインの裏表だから。

 

『●●してあげている』

 

と心のどこかで思う時、与えられていることがあるのだということを自覚していることはとても大切なことだと思います。

 

 

 

人生にはどちらの状況の時もあって、どちらであっても、その時に必要なエッセンスが私たちには与えられているから。

 

与える時にはしっかりと与えればいいし、与えられる時にはしっかりと与えられればいい。

 

自分を犠牲にして与えることばかりにフォーカスしなくても、世界と調和することは出来るのだから。

 

世界は本当は、当時の自分が思っているよりもずっとずっとやさしい愛に満ち溢れた世界でした。

 

 

 

あの頃、自然と目に見えない何かに導かれている様な感覚があったけれど、自覚はなかったけれどフューチャーセルフ(未来の自己)と交信していたのかもしれない・・・・・・と、これを書いていて思いました。

 

 

 

あの当時の私のように、何かに捉われている人がいるのなら、色んな世界があるんだよって教えてあげたい。

 

あなたはあなたが感じることを信じて、あなたらしく生きても大丈夫だよって。

 

あの時、メンターが私にしてくれたように、誰かの心の扉を開くお手伝いをしたいなっていうのが、私の今の活動の原点にあります。

 

 

 

∞ 答えはすべて自分の中にある ∞

 

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答えを示すのではなく、内なる答えを思い出すヒントを示すこと。

 

心に灯火を灯すこと。

 

夢を語ること。

 

 

 

それが私が私の生命を生きることに通じている様に思います。

 

 

 

2017年

立春に寄せて

 

 

 

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~with all of my heart~ 

 

Soul Creation Artist

眞穂乃 -MAHONO- (*^O^*)