今、感じていること~内側と外側をよりトータルに見つめる観点~

 

 

 

 

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※いつものことながら長文になっています※

 

 

 

この数日、エネルギーシフトの関係のようですが、スイッチが切れるように眠氣に襲われ、眠らずにはおれなくなり・・・・・・そういう時は必ずものすごく熟睡しています。

 

お誕生日に天河大弁財天社に訪れた日も、家に帰り着く前からその状態で・・・・・・車の中で知らない間に眠っていました。

 

帰ってからしばらくは何とか起きていたのですが、眠氣に負けて眠り・・・・・・自分でも驚きましたが何と15時間もの間、一度も起きないでぐっすり寝ていました!

 

その前の日が5時間ほど眠って目が覚めてしまい、そこから眠れなかったので、その穴埋めなのかとも思いますが・・・・・・それにしてもね。

それだけ寝たにもかかわらず、眠氣が取れない・・・・・・

 

頭の中が直接何かにいじられているかのような感覚があり、サードアイとその奥の辺り・・・・・・松果体の辺りもずーーーっともやもやとした感覚が続いていて、併せて耳鳴りも続いています。

 

ディクシャを受けた時に起こる、頭の再配線の感覚に近いような・・・・・・

 

まぁ、ともかく変わり目であることは間違いない感じです。

 

 

 

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何か新たな感覚へと導かれるというのか・・・・・・

 

そんな中で、今思うことを書いてみようと思います。

 

 

 

これまで私は、否定し続けていた自分の感覚を認めること、そのために必要なことを教えてくれる人と出逢い、その部分を開くということをしてきました。

 

しかし、それと同時に、その過程の中で特殊な靈的な感覚を持つが故に現れてくる傲慢さというのか・・・・・・

 

はっきりと言うと、『私はあなたたちとは違うので』みたいな・・・・・・

 

そういう思いが無意識のベースにある方(ひとりではない)を見る体験をしてきました。

 

最初はそうではなかったのだけど、そういう部分をこじらせてくる・・・・・・周りの反応に応じてエゴが次第に肥大してくる感じです。

 

 

 

私は元々、人が持っている感覚を自然に開くことは、可能性を開いてゆくためにも大切なことだと思っています。

 

しかし、何かそれをエゴを満足させるためだけに使うことは・・・・・・本当にばかげているし、とてももったいないことだと思っています。

 

感じ方や持っている能力や性質って千差万別で、本当に人それぞれです。

 

だから、色んな感じ方の人がいていい訳で。

 

多様性を認めて、それぞれの素敵さを尊重したいな・・・・・・と、いつも思っています。

 

靈的なことをわかることも、そのことをご自分の人生を素敵に彩るために、そして周りの方がより彩り豊かに生きるために使うのならば、それはとても素晴らしいことだと思います。

 

しかし、人と違うこと・・・・・・人が感じられないことを感じたり見たりできることで、そのことを人に伝えて人が尊敬してくれたり尊重してくれることを無意識に求めて使うことが、いかに人の心を蝕むのかをこれまで見てきました。

 

そもそもそういったわからない人には確認しようのない案件・・・・・・靈能的なことで、ご本人に頼まれてもいないのに他の人の人生のプロセスに土足で介入するのは、本当にルール違反というか・・・・・・罪作りだな・・・・・・と思います。


それが正義で正しいことだと頑なに信じているところが厄介で。

 

そういうことがわかるからといって、人間的な氣遣いや思い遣りのない心で相手が受け取れるかどうかわからない豪速球を投げつける・・・・・・

 

それも、わからないことがわかるが故に、無意識的に『私が教えてあげている』という上から目線・・・・・・

 

本当はこんなことを言いたくはないけれど・・・・・・と言いながら、『神様が伝えなさいと言った』とドヤってこられてもネ・・・・・・

 

いや、全然頼んでませんけどネ・・・・・・(;・∀・)マジデ


それがどれだけ傲慢なことなのかに氣づかないお子様な精神性で、靈的な能力を使うことほど恐ろしいことはないのに・・・・・・

 

でもって、そういうこと・・・・・・相手が受け取れもしない、受けとりたくもない豪速球を一方的に投げつけることを正義だと信じて疑わないのだから質が悪い・・・・・・

 

私は正しいことをしている!神の名のもとに・・・・・・(悲)

 

しかし、自分がアドバイスを求めてきた時には、受け入れたくないことを言われると、ものすごい勢いで反発し、まったく聞く耳を持とうとしない。

 

で、何とかして自分の得たい答えを相手に言わそうとする・・・・・・

 

やれやれ。

 

そういう子供じみた精神構造にうんざりした次第です。

 

厳しいことを言うのは簡単です。


ですが、そこに信頼関係がなければ、それは一方的な言葉の暴力にしかならないと思うのですよ・・・・・・

 

聞かれているのならともかく、聞かれてもいないのに神の名を騙り一方的に物申すって、スピリチュアルハラスメント・・・・・・『スピハラ』じゃないですか?

 

あなたのために・・・・・・って、本当に相手のためですか?

 

自分を正当化するため、欲求を満たすためではないのですか?

 

そういう言葉を相手に投げつける自分自身が、本当は一番傷ついているのではないですか?

 

本当は自分自身を信じられていないから、歪んだ形で他者承認を求めているのではないですか?

 

 

 

私は自分の感じることを封じていたのは、人と感じ方が違うことを悟られることに対しての怖れでした。

 

それは、まさにそのようなこと・・・・・・そういう感覚があることで自分が間違える・・・・・・傲慢になってゆくことに対する怖れ、そして過去生において、そういう感覚があるが故に人生が自由にならなかった悲しみの体験に関する昇華できていないエネルギーの影響もありました。

 

そういうことから、自分の中で隠そうとしている感覚がずっと続いていました。

 

自分自身が自分を信じられていないから、怖かったのだと思います。

 

本来は自分自身の感じることなのだから、他の誰が何を言おうと自分自身のことを迷わず信じられたなら、そういうことにはならないでしょうね。

 

かつての私は、自分の感覚をまったく信じられていなかったので、ずっと色々閉じて生きていました。

 

 

 

私が2016年末までに色々な形で見せられてきたこと・・・・・・それは、自分自身のことを、自分の感覚を信じ抜くことのためでした。

 

今までずっと、どこかで自分のことを卑下し続けていた・・・・・・自分自身の可能性や善さを信じ切れていなかったのです。

 

内面ではずっと無意識に私なんて・・・・・・私なんかが・・・・・・と思うことで、自分が及ぼす責任について逃げ続けていたのです。

 

そうしていれば安心だから。

 

積極的に行動をしなければ機会も増えないので、そうしていれば自分が及ぼす責任について考えなくてもいいし、致命的な失敗をして自分のちっぽけ過ぎるプライドが玉砕されることもないので・・・・・・

 

ずいぶんとバンジーのような体験をしてきて変容し続けてはいましたが、まだそういうのが残っていて昇華されていなかったのです。

 

 

 

かつての人間関係において、私のそういう部分・・・・・・自分が無意識に怖れ続けていたことを見せられ続けていたのです。

 

そして、それを外側の世界で見ることにより、自分は本当はどう生きたいのか???を考える機会を与えられていたのです。

 

つまりはずっと大きなメタモルフォーゼ(変容)のためのアラームが鳴り続けていたということです。

 

それが、ずっと長らくわからなかった・・・・・・いや、どこかでは解ってはいたけれど、わかろうとしなかった、どうしても認められなかった、手放せなかった最後の砦の小さな小さな自分を守るためのプライドを、昨年末までのプロセスによって私はようやく認めて手放せたのでした。

 

これまで薄皮を剥ぐようにして紐解いてきたことが、2016年後半になって加速度的に、劇的に展開しました。

 

私個人のプロセスですが、全体の流れとも大きくリンクしています。

 

私たちは個であり全体なのですから、それは当たり前のことですが。

 

 

 

これからって、益々それぞれの個性を生きる時代になってくるのだと思います。

 

人の創造性、クリエイションの質はそれぞれまったく違っていて、その違いがとても素晴らしいことなのだと認めあう共同創造の時代。

 

それぞれのありのままのパーソナリティを生きること。

 

そして、その違いを認めて自然に受け入れてゆける関係性、コミュニティ。

 

そうではなかった・・・・・・ある意味で真逆を見てきたことで氣づかされたことがたくさんありました。

 

それはそれでいいのだと思いますし、それを正そうとはまったく思いません・・・・・・ご自由に・・・・・・です。

 

私たちがいったいどうしたいのか?どう生きたいのか?これまで見てきたことを通じて問いかけ続けられていました。

 

 

 

それぞれが違っていてそれが素晴らしいことがよりクローズアップされてくる時がもう来ています。

 

そして、自分が優位に立とうとか上でいようという意識ではなく、同じ考えの人が集まる小さなグループの中で、閉じて多様性を認めないのではなく・・・・・・

 

よりフラットに人とつながり、その繋がり、愛、信頼関係の中でそれぞれの個性を生かしあいながら創造性を発揮してゆく時が訪れているのだと感じています。

 

私たちは、昨年より元々の私たちのコンセプトである【コ・クリエイト(共同創造)】に立ち戻り、再び強く意識しはじめました。

 

そのことを強く意識することになったと同時に、これまでの流れとは離れてゆくプロセスは加速し続けました。

 

お互いの役割が終わったのだな・・・・・・そう感じていました。

 

そのプロセスの中で私たちはこの先いったいどうなるのだろうか・・・・・・と思うことも時にはありました。

 

けれど、もしそれでダメになったとしても、そこは妥協できない、譲れない・・・・・・そう腹を括りました。

 

私たちが自分の人生を周りの人たちとどう生きたいのか?結局はそこだけなんだな・・・・・・と、シミジミ思います。

 

 

 

起こることにはただ事実があるだけなので、誰かが何かが悪い訳でも何でありません。

 

自分自身の心を見つめて、シンプルに自分に正直に在ることを選び続けてきた人にとっては、これからは益々素晴らしく自分の個性を発揮して楽しく豊かな創造の世界を生きることになってくるでしょう。

 

そうはではない場合・・・・・・自分のエゴを手放せないで、自分事なことをそう見ずに他人事にして生きている人にとっては、さらに氣づいて!という次第に大きくなるアラームが鳴り続ける状態となり・・・・・・それを氣づこうとしなければ、ある意味でとても辛い状態だったりしんどい状態を生きることになるのでしょう。

 

それがこれから先にさらに加速する【意識の二極化】なのです。

 

どの様に在るのか・・・・・・それは、それぞれの人に委ねられていることです。

 

 

 

私の中でも、自分の中のなかなか受け入れられていなかった部分・・・・・・今まで意識的、無意識的に見ないようにしていた自分自身である一部分を受け入れることがテーマとしてありました。

 

そのことに氣づき、その部分を手放すことが2016年までの大きなテーマでした。

 

2017年以降のテーマがあるのだとしたら・・・・・・

 

『自らの質を受け入れた自分自身をさらに積極的に使ってゆく』

『自らの質を使うことを通して全体性に貢献してゆく』

『格好つけないで自分自身のありのままを生きる』

 

今の所はこの3本立てかなと思います。

 

 

 

それと、今自分が行っていることについて、春分までを目処に整理整頓してゆこうと思っています。

 

多岐に渡り色々と展開していますが、本当に継続してゆく必要があるものとそうでないものとの精査の必要性を以前から感じていました。

 

これから先の自分にとって本当に必要なものは何なのかを見極めてゆくことの必要性を感じています。

 

これもずっと先延ばしにしてきたことです。

 

たくさん色んなことができるということは、実はどうでもいいことで、これからの私が何をどうしてゆきたいのか?を考える必要があるのだと思っています。

 

 

 

過去において、自分のテーマを見せてくださった関係性について、本当に感謝しています。

 

私自身、完全な人間ではありませんし、人生のプロセスを歩み続ける途上の人間です。

 

人間はそのままで完璧ですが、存在としては完全ではありません。

 

その、そのままで完璧でありながら、存在としては不完全であることに人間の個性、パーソナリティがあるのです。

 

個性的でユニークな存在である私たち。

 

私自身の完全ではない不完全さを愛し、すべての人の不完全さをそのまま愛すること。

 

他の誰かと比べるのではなく、どう在ることが私にとってより自然で最善なのかを見つめ、より純粋に私という個性を体現してゆきたいと思っています。

 

相対的な認識・・・・・・誰かと比べる認識、観点ではなく、絶対的な認識・・・・・・自分がどの様に在るのかという認識、観点でよりクリエイティブに生きる!

 

 

 

これからは、内面にフォーカスする視点と共に、外側に表現する視点を持ち、より全体性的な観点から自分の行っていることを見てゆく方向に向かいます。

 

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インフィニティ∞の片側は現象界・・・・・・つまり外側の世界、もう片側は意識領域・・・・・・つまり内側の世界。

 

インフィニティの結びの部分が人の意識領域と現象界とをつなぐ視点の部分で、この結び目の両側は必然的に影響し合うというか・・・・・・反映し合っています。

 

2016年までの私の観点は、意識領域・・・・・・内側の世界の方に比重が高かった様に思います。

 

実際はこの両方をトータルで見る観点・・・・・・すなわち観照(かんしょう)が必要で、内側の世界のことをもう片側の現象界に反映させてゆくこと、すなわち内側と外側、この両者のバランスが偏らないようにすることが必要なのだと思っています。

 

かん しょう くわんせう [0] 【観照】
( 名 ) スル

主観を交えず,対象のあるがままの姿を眺めること。冷静な心で対象に向かい,その本質をとらえること。 「人生を-する」 → 観想


美学で,美を直観的に受容すること。自然観照と芸術観照とがある。 → 静観 ・ 鑑賞(補説欄)

参照元http://www.weblio.jp/content/%E8%A6%B3%E7%85%A7

 

 

  

スピリチュアル(精神性という意味で)とリアル(現象界、現実)をよりトータルに見つめること、リアリティー(本質、真実性)を生きること。

 

その一環として、これまでの活動やこれまでの文章での表現だけではなく、トークでの表現を行ってゆくことがある様に思います。

 

新たなアウトプットの手法と出逢うことを通じて、新たな可能性を発見するかもしれませんし、より何かが削ぎ落とされてゆくかもしれません。

 

 

 

観点が拡がることにより、私の生き方がどの様に変容してゆくのか・・・・・・予測不能でまったくわかりません。

 

これからがとても楽しみです♪♪♪

 

 

 

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~with all of my heart~ 

 

Soul Creation Artist

眞穂乃 -MAHONO- (*^O^*)

 

 

ゆめのたね放送局より

2017年2月

ラジオパーソナリティデビューいたします!

応援よろしくお願い致します♪♪♪

 

眞穂乃~mahono~